技術革新の波
新しい技術との出合い、それも歴史や人生を大きく左右してくれます。
種子島という当時日本の最南端の島に鉄砲がもたらされたのは1543年ですが、この技術は堺の商人たちによって瞬く間に全国に広がります。この新技術を早速に取り入れて、戦闘用に使ったのは、堺に近い本願寺派の紀州、雑賀孫一です。もちろん信長も早くからこの新技術に着目し、鉄砲頭の橋本一巴の下に鉄砲隊を組織しますが、地の利を生かした本願寺には及びません。初期の鉄砲の生産技術を保有していたのは種子島と堺しかありませんでした。さらに火薬の材料は国産できません。硝石や弾丸の材料である鉛は輸入品です。しかも高価です。この2つは、種子島や五島列島を経由した中国との密貿易で手に入れていました。したがって鉄砲が伝来しても、実際の戦闘に使われるまでには時間がかかりました。鉄砲は量産できても肝心の弾薬がありませんから普及に時間がかかったのです。
この弾薬ルートを真っ先に確保したのが本願寺で、種子島からの輸入ルートだけでなく、越中の五箇所村で煙硝(火薬)の国産にも成功しています。本願寺の強さは信仰の力もさることながら豊富な鉄砲や弾薬など工業技術力にあったのです。
南無阿弥陀仏という人の和と、鉄砲という新技術を独占できる地の利、この2つが本願寺の強さだったのでしょう。もしかすると、戦国最強と言われるべきは、上杉でも武田でもなく、本願寺であったかもしれません。
ハード、ソフト & ヒューマン
ハードウェアとしての鉄砲の量では劣っていても、鉄砲を使った戦術という点では信長が一歩先んじていました。鉄砲を使って前線の兵を打ち倒し、ひるんだ隙に長槍隊を突撃させ、騎馬軍団が敵の混乱をかき回すというソフトウェアを用意したのは信長です。しかも信長は、他に先んじて戦争専門職としての武士団を作り上げていました。当時の兵隊というのは、そのほとんどが農民兵で農繁期には出動できなかったのです。兵農分離で軍事専門家を準備した信長のヒューマンウェア、これまた新技術です。
その後、堺を押さえ、ハードの技術を近江の国友村に移植してからは、ハード、ソフト、ヒューマンウェアの3分野で、絶対優位の体制を整えました。天下布武の完成です。
一期一会
直江兼続と石田三成、この2人の出会いが戦国末期の日本を大きく揺り動かします。転換期にはそうした出会いが数々あって歴史物語を彩ります。明治維新の西郷と竜馬、勝海舟と竜馬、そういう組み合わせが歴史を動かしていきます。
ビジネスの世界でもそうですよね。色々な方々と名刺を交換し商売の打ち合わせをしますが、経営の根本を変えるような出会いがあります。結果の善し悪しは別として、決定的出会いがあって経営の歴史が刻まれていきます。
上杉会社の専務、直江兼続と豊臣会社の執行役員、石田三成の出会いも同様に、決定的出会いでした。彼らを引き寄せたものは戦国終焉後の国家構想です。「産業資本を背景にした中央集権国家を作ろう」という点で2人は意気投合しました。彼らの構想は、江戸時代の封建制度を飛び越えて、近世の明治国家に似たものです。資本主義とまではいきませんが、金融や流通を前提とした経済体制をイメージしています。
そうなると、鎌倉幕府を手本に、封建体制による農本主義を復活させようという家康とは真っ向から対立します。家康が指向した体制は地方分権による地域完結型経済で、全国規模の資本流通、ましてや海外との貿易拡大などは念頭にありません。流通はいわば必要悪でもありましたから、商人の位置付けは最も卑しいものとし、士農工商と最下位に位置付けたのです。鎖国も当然その延長線上です。
直江兼続の天の時は、盟友三成が関ヶ原で敗れた時に、消え去りました。
「過ちて改めざる、是を過ちという」。論語の言葉を噛みしめて、兼続は家康の幕府に従うことを決断します。この決断が、上杉会社を明治まで生き残らせました。社員の雇用を守ったのです。
プロフィール
文聞亭 笑一(本名:市川勝一)
1943 長野県松本市生まれ
1966 信州大学工学部卒
同年 立石電機(現:オムロン(株))入社
営業、企画、情報部門を経て
1997 オムロンネットワークアプリケーションズ(株)
代表取締役社長
2000 オムロンアルファテック(株) 代表取締役社長
アシスト・ユーザ会「ソリューション研究会」役員
現在 ヒューマンウェア(株) 顧問
轍産業(株) 顧問