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日本のパッケージ・ソフト市場を開拓したアシスト社のビジョン

[掲載媒体]INSIGHT NOW!(第一回 第二回 第三回 最終回
[日付]2010年4月30日~5月20日


コンピュータソフトといえば、自社専用に開発するもの。そんな認識が主流だった日本に、本格的なパッケージソフトを持ち込み、普及を促したのがビル・トッテン社長率いるアシスト社だ。同社成長の歩みは、日本のパッケージソフト市場成長の歩みでもある。

日本のパッケージ・ソフト市場を開拓したアシスト社のビジョン

株式会社アシスト
代表取締役 ビル・トッテン

1941年 米カリフォルニア州に生まれる
1963年 カリフォルニア州立大学卒業
1963年 ロックウェル社(アポロ計画)勤務
1967年 システム・デベロップメント社(SDC)勤務
1969年 SDCに在籍しながら南カリフォルニア大学
     経済学士号取得
1969年 SDCの社員として日本の市場調査のため初来日
1972年 株式会社アシスト設立、代表取締役となり、
     現在に至る

日米問題を中心とした10冊を超す著書を出版し、講演活動なども行っている。




日本には市場がまだない、だからこそ日本でやりたい


「どうしても認めてくれないのなら、自分でやりますと言いました。これがすべての始まりですね」

1971年冬のある日、トッテン氏は米システム・デベロップメント社(SDC)の重役室にいた。過去一年半あまりをかけて日本でのパッケージソフトウェア市場に関する調査を行い、自分なりの分析に基づいた提案書を上司に出したのだ。

「40年前の日本にはまだ、パッケージソフトを採用している企業は、ほとんどありませんでした。だからこそ絶好のチャンスだと思ったのです」

トッテン氏の言葉は、マーケティングに関するある有名な逸話を思い出させる。アフリカにセールスマンが二人、靴を売りに行った。アフリカに着くやいなや一人は落胆する。理由は、アフリカの人たちが誰一人として靴を履いていなかったからだ。アフリカには靴のマーケットなどない、と判断し彼は帰っていった。逆にもう一人は大喜びする。これからみんなが靴を履いてくれれば、アフリカには膨大なマーケットが生まれると考えたからだ。

「日本でも、コンピュータがどんどん使われるようになっていました。ところが企業で使うソフトは、ほとんどが自社開発の時代でした。だからといって我々のようなアメリカ企業が、日本企業向けのソフト開発を受注できるかといえば、それも至難の業。何しろ1ドル=360円の時代でしたから」

人月計算で見積もられる開発費は、どうしても人件費の比率が大きくなる。物価水準の差もあり当時のアメリカは、日本よりずいぶん人件費も高くついた。アメリカでソフトを受託開発していてはコストがあわないのは目に見えている。

「しかも我々は日本語ができません。日本の商習慣もよく知らない。日本文化も理解できていない。『お前達にソフト開発を頼むわけがない』と調査に行った日本企業で言われました」

だからといって米系ソフト会社には日本マーケットに参入する余地がないのかといえば、決してそんなことはない。使っているコンピュータは日本企業もアメリカ企業も同じ、たいていがIBM製だった。

「確かに日米で企業文化は違うかもしれませんが、業務内容やプロセスはどうでしょうか。仕事の進め方自体に、それほど大きな差はないはずです。同じIBM製のマシンを使っているなら、アメリカで使われているパッケージソフトがきっと使える。僕はそう考えたのです」

ところが上司は、トッテン氏の考え方に理解を示さなかった。そこでトッテン氏は会社を辞め、起業を決意する。時にトッテン氏、29歳の出来事だった。

異国で巡り会った友のサポート


「辞めたいのならどうぞ。ドアはあっちだと言われたので、重役の部屋を出て、その足で以前から目星を付けていたソフト会社に行きました」


トッテン氏が向かった先は、当時アメリカで最もポピュラーなパッケージソフトを扱っている2社だった。すなわち『MARK IV』のインフォマティックス社であり、もう一社は『ASI-ST』のASI社である。

「御社のパッケージソフトを日本で売りたいと持ちかけると、両社とも興味を持ってくれました。テスト用のサンプルソフトをもらい、僕が日本で試しに売ってみる約束を取り付けたのです。見込みがありそうなら代理店契約を結ぶ運びになっていました」

上司に提案を拒否されてからわずか一週間も経たないうちに、トッテン氏は再び機上の人となる。しかし日本に戻り、いざビジネスを始めようとして初めて自分が置かれている厳しい状況に気づいた。

「市場調査をやっているときは、会社が通訳を付けてくれました。事務所も借りてくれていた。ところが、今度は何もかも僕が一人でやらなければいけない。その頃はまだ日本語も話せないし、そもそも会社を経営したことなどなかったのですから」

困り果てて相談に行ったのが、以前から親交のあったシステム開発株式会社の永妻社長である。永妻氏は話を聞きソフトビジネスの可能性をすぐに見抜いた。そしてトッテン氏を自社に誘う。


「永妻さんは言いました、俺の会社に入って、ソフトを売ればいいじゃないかと。僕にしてみれば、まさに渡りに船です。そこで最初の課題となったのが、二つのソフトのうちどちらを扱うのかを決めること。僕は『ASI-ST』が良いと思っていました」

『ASI-ST』『MARK IV』は、いずれもデータ・マネジメント・システムと呼ばれていた分野のツールで、主にプログラム開発の生産性向上を目的に使われるもの。実際問題、その性能は甲乙付けがたいものだったようだ。

「結論として『ASI-ST』を採用することになったのですが、ここで永妻氏は僕にはまったく考えられないとんでもない行動を取ります。結果的には、このときの永妻氏の行動が、我々の成功につながったのですが、あのときは本当にびっくりしました」

永妻氏が取った『あり得ない』行動とは何だったのだろうか。



競合がいて初めて市場は立ち上がる


「永妻さんはよりによって『MARK IV』を、僕たちの競合となる相手に紹介したんです」

そもそも日本とアメリカのソフトウェア市場には、大きな不均衡があった。情報不足のために日本企業は、パッケージソフトのメリットを全く理解していなかったのだ。ソフトといえば、自社の業務内容に合わせて自分たちで作るもの。これが当時の日本の常識である。

「情報の不均衡あるところ、必ずチャンスあり。これはビジネスの鉄則ですね。だから僕はアメリカの会社を辞めてまで日本に乗り込んできたのです。扱う商品も決まり、さあこれから売りまくるぞというときに、わざわざ競合を作ろうとする。永妻さんの考えていることが、最初はまったく理解できませんでした」

ところが、この永妻氏の行動こそが、日本にパッケージソフト市場を立ち上げる上では決定的に重要だったのだ。その真意を理解するためには、仮に日本市場にトッテン氏の扱う『ASI-ST』しか存在しなかったらどうなったかを少し考えてみればよい。

「日本ではまだ誰もパッケージソフトの良さを知りません。しかも、そのソフトを広めようとしているのは外人、つまり僕のことです。こいつは商売がうまくいかないとなれば、いつアメリカに逃げ帰るかもしれない。そんな奴だけが扱っている製品、それもこれまでの日本では誰も知らなかった製品の話を、誰が真剣に聞いてくれるでしょうか」

では、競合他社、それも日本企業が、時を同じくして同じジャンルの製品を扱い始めたらどうなるだろうか。競合二社は当然お互いに切磋琢磨し合い、マーケットでの認知度を高めるべく啓蒙活動に励むだろう。トッテン氏はアメリカ人だが、競合社は純然とした日本企業である。日本人が誠意を込めて話をすれば、日本企業もむげに拒否はしないだろう。

「結局、競合する二社が競い合うことはお互いによい刺激になるし、何よりマーケット全体が活性化するわけです。この相乗効果を永妻さんは読んでいたのでしょう」

だからといってすぐに売れたというほど甘い話ではない。何しろ、日本では初めてのパッケージソフトである。どの会社も使ったことがないソフトを導入するのには、相当な勇気が求められる。トッテン氏を招いたシステム開発株式会社内でも、パッケージソフト販売に対する不協和音が響き始めていた。

分離、独立、そして初めての顧客獲得へ


「営業を始めてから数ヵ月、経費だけは2000万円ぐらい使っていたでしょうか。ところが一向に売れない。永妻さんの会社でもほかの役員から撤退の声が出てきた。結局僕が独立して扱うことになったのです」

1972年、トッテン氏率いる株式会社アシストが設立される。社員数名の小さな会社で売上実績ゼロ、しかし売り込み先だけは超一流の大企業ばかりだった。先頭に立ってセールスを引っ張ったのはトッテン氏である。


「努力の甲斐あってようやく買ってくれたのはシェル石油でした。イギリスとオランダによる100%出資の外資系企業で、海外のグループ会社はすでにパッケージソフトを導入済み、だから私の提案に対しても抵抗感がなかったのです。とはいえ乗り越えるべき大きな問題が一つありました。彼らが海外の支部で導入していたのは『MARK IV』だったのです」

もしグローバル化が進んだ現在のように世界中がネットワークでつながれていれば、同じ企業グループ内で異なるソフトを採用することはまず考えられなかっただろう。しかし、幸いにもまだインターネットはなく、時代がトッテン氏に味方した。

「僕の話を、シェル石油の若い日本人がじっくり聞いてくれました。彼らは『ASI-ST』についていろいろ調べて、上司を熱心に説得してくれました。これが効いたのです」

トップセールスに励む傍らでトッテン氏は、パッケージソフトの啓蒙活動にも精を出した。ガートナーレポートやインプットなどの調査会社のレポートや、アメリカのIT関連の書籍や雑誌記事などを日本の顧客企業向けに翻訳して、自分の解説をつけて、「アシスト・メモ」として提供していった。

「シェルから契約が取れた実績は大きくものを言いました。引き続いて明治生命、神戸製鋼、などが採用してくれたのです」

海外では『MARK IV』を使っているシェルが、日本に限ってはわざわざ『ASI-ST』を採用した。この実績がアシスト社にとって強力なセールスポイントとなった。日本には存在すらしなかったパッケージソフト市場の開拓者として、トッテン氏率いるアシスト社は、少しずつではあるけれども、着実な成長を始めたのだ。



広告を打つかわりに足で稼ぐ会社


「広告は一切やりません。その代わり当社は、足で稼いでいます」

過去の失敗経験も踏まえての話なのだろうが、アシスト社は広告にお金をかけない。といってプロモーションを軽視しているわけではもちろんない。費用対効果をシビアに考慮した上で、広告は無駄と判断しているのだ。

「もし当社が、ビールや自動車など一般消費者に買ってもらう商品を扱っているのなら、広告は当然必要でしょう。しかし、我々の主要顧客はせいぜい数百社どまり。潜在顧客全体でもおそらくは7~8000社ぐらいしかないはずです」

これがBtoBビジネスの難しいところであり、だからこその勘所でもある。要するに人による営業の占めるウェイトが圧倒的に高いのだ。だからといって単純に『売り込む技術が重要なのだな』などと勘違いしてはいけない。

「当社には営業マンが 200人ぐらいいます。彼らが毎週のようにお客さんと会って、じっくりと話を聞いているから広告などする必要がないのです。ただし当社の営業が使うのは口ではありませんよ。足と耳を徹底的に使います」

トッテン氏が何よりも優先するのは、顧客の意見や要求を聞くこと。いま、どんな製品が求められているのか。どんな製品なら売れる可能性が高いのか。答えはすべてお客様のところにある。

「ソフトウェアは実に複雑な商品です。万が一、ソフトが何かトラブルを引き起こして、お客様のコンピュータが止まったりすれば大変なことになる。だから新しいソフトを導入するときには、お客様もどうしても慎重になります」


しかも決定権を持つ人たちほど年代が上、つまりコンピュータには詳しくない。だからアシスト社の営業マンは、自分たちの代わりに上司説得に当たってくれる顧客企業の情報システム部の担当社員から意見を聞く必要があるのだ。

「購買にいたるまでの意思決定プロセスの複雑なのが、個人ではなく企業を相手にしたビジネスの特徴です。そこでは何より大切なのは信用です。どうすればお客様から信用を得ることができるか。基本はお客様から話をじっくりとうかがうこと。これに尽きるのです」

広告を打たず顧客の話にひたすら耳を傾けるアシスト社にはもう一つ、極めてユニークな特徴がある。

企画部門のない会社


「あえていうなら我々はまったく計画性のない会社です。足を使ってお客様を訪ね、耳を使ってお客様の悩み、要望を聞き出すことだけに集中しています」

実際アシスト社には企画部門がないのだという。ということは自社でオリジナルソフトを開発したこともないのだろうか。
「ソフトを自社開発したことは何回もあります。けれど、見事なくらい毎回失敗しました。損失を計算すれば10億以上にもなるんじゃないですか。失敗を重ねて気づいたのです。出版社が、どうして自社の社員に原稿を書かせようとしないのかに」

▲アシストの組織図


優れた書き手は自社に抱えずとも、世の中にいくらでもいるのだ。これをソフト業界に当てはめるなら、開発者や開発企業はいくらでもあるということ。そして一方には、さまざまなソフトを求める顧客がいる。そこに欠けているのはマッチングである。

「だから我々はお客様からひたすら話を聞く、聞くことに徹します。話を聞いて問題点を特定することさえできれば、後はその問題を解消できるソフトを探してくればいい」

買ってくれなくていいから、とにかく話を聞かせて欲しいとアポを取る。営業マンなら1週間に最低 15件は顧客を訪問する。顧客と会うことができれば、一心に話を聞く。こうしたアシスト社の営業手法は、いずれもトッテン氏が実践して編み出してきたものだ。

「話を聞き、ベストな製品を提案する。加えて我々が心がけているのは導入前のコンサルティングや教育と、導入後のサポートです。コンサルティングといっても、一般的なコンサルティングとは異なり、あくまでもソフト導入に関して。たとえばデータの持ち方はどうすればいいかという話です」

そしてサポートである。同社のサポートは丁寧かつ迅速な対応で知られている。トラブルがあると何はさておき顧客のところに駆けつける。時間ギリギリまで現場で問題を詰める。然る後に、当時の開発会社はすべてアメリカだったので、時差を利用して日本時間の深夜の間に開発会社に連絡を取り、次の日までには解決策をひねり出す。

「ユーザーニーズに応えてこそ商売になる。お客様が求めるものを提供すれば、必ず成功する。これがビジネスの鉄則じゃないでしょうか」

70年代半ばに同社は、簡易言語でのヒット商品『Easytrieve』を発売、80年代にかけて国内パッケージソフト市場で押しも押されもしないリーダーへと成長する。そして80年代初頭からは毎年、ほぼ倍々ゲームの勢いで成長していくことになる。



永住の決意と会社の急成長


「僕はいずれ、アメリカに帰るつもりでした。その意味では会社経営も、僕にとっては一つのプロジェクトだったのかもしれません」

ビル・トッテン氏はすでに日本に帰化している。なまじの愛国家などではとてもかなわないぐらい日本を愛してくれてもいる。だからこそ今後の日本を考えた提言を何冊もの書籍として出しているのだ。

「この国と真正面から向かい合うキッカケとなったのは娘の存在でした。1973年に娘が生まれ、最初はアメリカンスクールに入れたのです。ところが家では日本語を話しているのに、そこでは先生も友だちもみんな英語しか使わない。言葉の問題のために娘はすごく落ち込んだのです。そして僕は、アメリカと日本のどちらで子育てすべきかを真剣に考えました」

治安の問題から価値観の違いまで、さまざまな要件について思い悩んだ末にトッテン氏は日本を選んだ。

「自分では意識していないのですが、この先もずっと日本にいるのだと決めてから、何かが変わったのだと思います。こうした内面的な変化が経営にどう影響したのかはよくわかりません。しかし、永住を決意してから急に会社の業績が伸び始めたのです」

80年の4億円弱が、85年には46億円超に、同社は5年で売上を10倍以上にも伸ばしている。社員数も32人から7倍以上となる236人にまで急増している。その社員についても同社には極めてユニークな特長がある。女性が活躍している点だ。

「はっきり言って女系会社ですよ(笑)。ナンバーツーは女性、常務3名の内2名が女性。トップ営業も女性。教育部門の部長も女性。技術者にも優秀な女性がたくさんいます。これは日本社会に男女差別があったからこそ。僕は差別にとても感謝しています」

男女雇用機会均等法ができる遙か前の話である。女性が成功する会社、どんどん伸びていく企業。そんなアシスト社の評判がさらに優秀な女性を引き寄せた。そしてアシスト社は順調に業績を伸ばしていく。扱うソフトも増え、コンサルティングから製品の導入支援、教育研修、導入後のテクニカル・サポートまでサービス内容も充実させていった。

週休4日で生き残りを図る


「リーマン・ショックの影響は、我が社にもありました。しかし、そんなことより日本の状況をよく見てください。名目GDPでみれば、2009年度は1992年より少ないじゃないですか」


日本ウォッチャーだからこその指摘である。データを見ればトッテン氏のいう通り、日本の名目GDPはこの20年間ほど横ばい傾向が続き、さらに悪いことに近年は下がる一方だ。

「この先日本経済が急激によくなるとは到底考えられないでしょう。少子高齢化、石油の減耗、環境問題に製造業の空洞化。現状ときちんと向き合って将来を考えるなら、日本の経済規模はやがて今の半分ぐらいになってもおかしくはない」

とはいえ業績悪化を理由に社員を解雇したことなど一度もないのがアシスト社である。先を見据えたトッテン氏は、いま大胆な制度をアピールしている。週休4日制である。

「労働時間を6割に減らします。その代わりに給料も6割にする。当社のコスト構造は、人件費の占める割合が極めて大きい。これを踏まえて売上が半分ぐらいに落ち込んでも、会社が生き残れるよう対策を今から練っているのです」

確かに計算は合う。そして休みが増える分を、例えば家庭菜園などの農作業に当てればどうなるか。あるいは衣食住を見直し、できることは可能な限り自給するようライフスタイルを変える。


「実際に僕を真似して家庭菜園に取り組み始めた社員が数十人います。会社でミシンを買って洋裁教室も始めました。僕は本気ですよ。会社と社員が協力すれば、会社を守り、最低限の給料も保証できる。同時に社員は自由になる時間を使って、自分の健康と幸福を守ることができる。これは新しい生き方になるじゃないですか」

ワークライフバランスに関心が高まっているいま、ビル・トッテン氏がアシスト社で始めようとしている制度は、今後の日本にとって極めて有益なモデルケースとなるだろう。アシスト社が教えてくれるのは、ビジネス面でのユニークな成功事例だけではない。なまじ生まれたときからの日本育ちではない、トッテン氏だからこそ見える日本の問題点とその解消策に、今こそ我々は真摯に耳を傾けるべきだろう。




◇インタビュー:竹林篤実/坂口健治
◇構成:竹林篤実
◇フォトグラファー:村山裕章
◇撮影協力:ピクスタ(株) 


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