- 特集
~アシスト創立50周年、オラクルビジネス35周年記念~
よりお客様目線でこれまでのいい関係をさらに発展させていく
アシスト創立50周年を記念して、35年間ともにあり続けていただいた日本オラクル株式会社の取締役 執行役 社長 三澤 智光様と対談を行いました。
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人口の半分以上を高齢者が占める「限界集落」、石川県羽咋(はくい)市神子原(みこはら)の町おこしを行った高野誠鮮様は、奇抜なアイデアを次々に実現させることで町を活性化させました。「成功するまで失敗し続けてきただけ」とおっしゃる高野様に、その行動理念と哲学について伺いました。
立正大学客員教授
新潟経営大学特別客員教授
氷見市地方創生アドバイザー。科学ジャーナリスト、テレビの企画・構成作家として様々な番組を手がけた後、1984年に羽咋市役所臨時職員になり、本物のNASAのロケットなどを買いつけて展示した宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」を造り話題になる。2002年に農林課に異動、2005年より限界集落であった同市神子原地区の活性化プロジェクトを任されこれに成功。神子原米のブランド化、限界集落からの脱却を果たし、「スーパー公務員」と呼ばれるように。2011年より自然栽培米にも着手。2016年3月に市役所を退職してからは、自然栽培農法を全国に広めるべく活動する。著書に『ローマ法王に米を食べさせた男』(講談社)、『日本農業再生論「自然栽培」革命で日本は世界一になる!』(木村秋則氏との共著、講談社)など。
──テレビの構成作家をされていた高野様が、なぜ公務員に転身されたのでしょうか。
私が、故郷である石川県羽咋市にUターンしたのは28歳の時でした。当時、テレビ番組「11PM」などのUFO特集に構成作家として携わっていましたが、560年続く由緒ある寺の跡継ぎとして帰らざるを得なかったのです。兄が実家に戻る気がないことがわかり、自分が継がなければ故郷がなくなると思っての決断でした。ただその時、父親は健在で、檀家100軒ほどの寺に住職は2人もいらないことに気づき、羽咋市役所で月給わずか6.8万円の臨時職員の募集があったので応募し、1984年に採用されました。翌年には、寺を継ぐために、日蓮宗の40日間の修行を終えて僧侶の資格を取りました。
役所では、税務課からはじまり、次に社会教育課で「町おこし」を担当しました。そもそも町とは何か、何をおこせばいいのかを考えた結果、町を構成するのは小さな一軒の家であり、近代的な設備やお金があっても、町を構成する人たちの心が豊かでなければ町おこしはできないと思いました。そこで、「町おこし」を「人おこし」、「心おこし」と捉え、羽咋市が一番であるもの、誇りたいものを探して、「羽咋ギネスブック」を自費出版することからスタートしたのです。
また、古文書を調べていくうちに「麦わら帽のような形の飛行物体」という記述を見つけたことから、UFOで町おこしをと考え、うどん屋に「UFOうどん」というメニューを作ってもらってマスコミを集めたり、日本初の宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」を立ち上げて、NASAやロシア宇宙局と交渉して本物の宇宙船などを調達したのです。
──限界集落、神子原を担当されたきっかけは?
当時、上司と折り合いが悪く、「おまえみたいなヤツは、農林水産課に飛ばしてやる」と言われ、2002年に異動になったのがきっかけです。そして「過疎高齢化した集落の活性化」をマニフェストに掲げる新市長、橋中義憲氏が当選し、2005年4月、農林水産課内に「一・五次産業振興室」が新設され、私ともう一人の職員で九つの事業に着手することになったのです。市長からは市内で最も人口減少が顕著で疲弊していた神子原地区において、(1)過疎高齢化集落を活性化する、(2)農作物を1年以内にブランド化する、という命題を与えられました。よしやってやる、マニフェストをそのまま実行してやろうと思いました。
──当時の神子原地区はどのような状況だったのですか。
神子原地区は3集落からなる約1,000ヘクタールの中山間地域で、羽咋市の東部、富山県に隣接しています。市内では高齢化率が54%と最も高く、住民の半数以上を65歳以上が占める「限界集落」でした。1984年には196世帯832人いた住民は、2004年12月末には169世帯527人と、20年間で37%も減少していました。
耕作放棄地も、2000年度末の31ヘクタールから2005年には46ヘクタールに増え、若者の離村による後継者不足と廃屋の増加、冬の豪雪や急傾斜の農地などの耕作不利による放棄地の増加も目立ち、集落としての機能が失われつつある状態でした。
──それがどのように改善されたのですか。
2009年時点で、以下のような改善が見られました。
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事務費用は、初年度(2005年度)60万円、翌年は47万円、翌々年は27万円とかかったものの、2008年からは直売所の売上げで捻出できるようになりました。
──一大プロジェクトですが、一体どのように進められたのですか。
会議はしない、企画書も作らない、また稟議書も出さず、決裁も取らず事後報告で進めました。通常、こうした大きなプロジェクトを立ち上げる時は必ず会議をします。でも私は庁内の会議はやりませんでした。会議を何千回やったからといって高齢化率が下がるわけではありません。立派な計画書を作っても書いた通りにはなりません。企画書を書けばうまくいくのであれば日本は戦争に負けていないはずです。企画書が必要なのは、内容を理解できない人に説明が必要な時だけです。
必要なのは、電球が切れていたらすぐ替える人、すぐ行動に移す人です。「失敗したらどうするのか」とよく言われましたが、成功するまで失敗すればいいのです。何もやらない職員は失敗しません。知識は知っているだけじゃなくて、実行に移すことが重要なのです。やったことがある人が言うことと、やったことがない人の言うことには大きな差があります。失敗を繰り返すうちにバランス感覚が身についてくる。これ以上やったら、こうやったら失敗する。こうした感覚はやったことがある人でないとわかりません。
初年度の予算はあえて60万円にしました。市長から600万円の間違いではないかと言われましたが、600万円あればできるのでしょうか。私は自分から60万円と設定することで、「予算がないから、上がノーと言ったから」などと責任転嫁できないように、あえて自分を崖っぷちに追い込んだのです。
──なぜ、稟議書も出さず、決裁も取らずに進めたのですか。
役所では、過疎高齢化から抜け出すために、すでに数多くのことをやっていました。しかし実態として、過疎化は進み、農家の暮らしはひどくなっていました。やってきたことが間違っていたし、判断の誤りの連続だったからです。そこで、長い間、間違った判断を下してきた人達に稟議書を出して、お伺いを立てるのはおかしいと思いました。加えて稟議書を回せば、「なぜこんなことをしなければならないのか」と企画財政課、総務課などで止められてしまいます。1年で成果を出せと市長から言われているのに、従来のやり方では時間がかかりすぎると思いました。そこで事後報告の形をとったのです。
ただし、従来のルールを無視したやり方を取るには、市長以外にも理解者が必要でした。その時に楯になってくれたのが、農林水産課の上司でした。彼は、「コスモアイル羽咋」での実績を評価してくれ、あいつだったら何とかしてくれると期待してくれていました。何よりも、「俺の定年まであと3年。その間、何をやってもいいぞ。犯罪以外なら、俺が全部責任を取ってやる」と言ってくれたのです。
──具体的にどのような対策を取られたのですか。
そもそも、なぜこのような過疎高齢化の状況になっているのか、その根本原因を分析した上で、対処療法と根本治療の両面からアプローチしました。
対処療法としては、まず空き家対策として、都市住民に遊休農地や家をセットで貸し与える「空き農家・空き農地情報バンク制度」に着手しました。過疎地域に若者を呼ぶ試みは全国で行われています。成功事例ではなく、長続きしなかったところを徹底的に調査したところ、そこには共通点がありました。どこもお願いだから来てくださいと頭を下げていたのです。中にはお金を提供したり、水回りのリフォームをしているところもありました。頭を下げて来るのはお客だけ。過疎の村に欲しいのはお客ではなく、一緒になって汗を流して作業や村祭りやってくれる「村人」です。
そこで、私たちは、真逆のことをやりました。書類審査にパスした家族にだけ物件の見学をさせ、その見学中も村の役員が訪問者をチェックし、帰った後にはさらに絞り込みをしました。選ばれた人にだけ、移住したい理由をさらに詳しく聞いて、最後まで考えのぶれない若い家族しか入れなかったのです。その結果、移住してきた人は、誰一人として出ていっていません。
高齢化対策としては、都市の若者が農業体験をしながら農家の烏帽子子(えぼしご:日本古来の伝統文化で、元服を迎えた若者に自分の烏帽子を与えて盃を交わし、仮の親子関係を結ぶ)に登録して仮の親子関係を結び、農家を第二の故郷として親しんでもらう「烏帽子親農家制度」や、「棚田オーナー制度」なども採り入れました。
農村集落の最大の欠点は、農業そのものにありました。自分が作った農作物に、希望小売価格を一切つけられない点です。大根一本作るのに100円かかったとしても、市場で10円と勝手に決められてしまいます。これから逃れる必要があると思いました。つまり生産、流通、加工、販売というサイクルを全て村の人たちに担ってもらい、直売にすればいいのです。農協には一切、農産物を出さないということです。
しかし、直売所の運営には、当初169世帯中3世帯しか賛成してくれませんでした。売れ残ったら役所が買い取ってくれるのかと聞かれました。買い取らないと言うと、では客を目の前につれてきてくれ、そうすれば好きな値段で売ってやると言うのです。そこで賛成した3世帯の新米を役所に預けてもらい、私が売ることにしました。ただし私が全部売ったら、自活、自立してくださいねと約束してもらいました。田んぼにも入ったことがない私に、米が売れるわけがないと言われました。
──米を売るためにどのような方法を取ったのですか。
ブランド戦略です。人は自分以外の人が持っている物を欲しがります。女優のグレース・ケリーが持っていたバックは「ケリーバック」と呼ばれるようになりました。では、高品質の米はどうすればいいか。とても影響力が高い人が召し上がってくれているとなれば、それだけでブランドになると思いました。そこで影響力の強い人を勝手に3名選び、すぐに実行に移したのです。
私が選んだのは、天皇陛下、ローマ法王、アメリカ合衆国大統領の3名です。なぜアメリカ大統領かというと、アメリカは米の国と書くから、という単純な理由です。ではなぜローマ法王なのか。神子原は、神の子の原っぱと書きます。地名をあえて翻訳すると、The highlands where the Son of the God dwells(キリストが住まう高原)としか訳せない。クリスチャンから見たら、the Son of the Godはキリストを意味します。キリスト教徒、11億人の頂点です。日本の人口をはるかに超えています。
──それぞれどのようにアプローチしたのですか。
このお三方を選ぶと、それぞれにすぐアプローチしました。ここ石川県は、旧加賀藩です。ですから、最初に宮内庁の加賀藩ゆかりの前田氏を頼っていきました。その前田氏に、一年に一度でいいから天皇皇后両陛下が召し上がるお米にできませんかと相談したところ、その場で前向きな回答をいただきました。天にも昇る気持ちで、私の頭には、「皇室御用達」の文字が入ったポスターやのぼりのデザインまで浮かんでいたのですが、ホテルに戻ってみると今日の話はなかったことにしてくれとの留守電が入っていました。
役所に帰り、今度はローマ法王に手紙を書きました。お願いの手紙ではなく、「あなた様に召し上がっていただく可能性は1%もないでしょうか」という質問状です。何パターンも考え、「イタリアと能登半島の形が似ている」だったり、なぜ米を送るのか、様々な理由を考えました。
また、フェデックスで、ホワイトハウス宛大統領気付で、5キロの米も送りました。先に返事が来たのが、受取り拒否されたフェデックスからの荷物でした。見た途端、カチンときました。私たち日本人は、食べたくもない、遺伝子組み換えの大豆とトウモロコシを、1,000万トンも輸入しているのに、日本の農家が丹精こめて作った米5キロさえ送れないのかと思いました。
しかし、そこに日本のローマ法王庁大使館から電話が来たのです。失礼な手紙を送るなと怒られるだろうと覚悟しましたが、大使がお待ちになっているので大使館にすぐ来るようにとの連絡でした。大使室で言われたことはいまだに忘れません。「神子原というのは、500人以下の小さな村ですね。バチカンは800人しかいない世界で一番小さい国です。私が小さな村と国の架け橋になりましょう」。お米を法王様に献上してくださるとおっしゃってくださいました。
その時、日本からどんな貢物があったかの記録書を見せてもらいました。最初のページにあったのが、なんとNOBUNAGA ODAでした。献上したものは、BYOBOと記載されていました。最初は、イタリア語だと思いましたが、屏風のことでした。着目したことは、献上品の中に米はなかったということです。これは、日本から法王様に送られる初めてのお米ですね、と確認できました。「私が初めてお渡しします」と大使に言われました。このことは、大使館の広報から様々な言語で世界中に報じられました。「日本に、キリストの高原という聖なる地名が残っていた。そこから、法王様にお米が献上されることになった」と報道されたのです。
──その後の反応はいかがでしたか。
問い合わせが殺到しました。11億人の信者です。英語、イタリア語、韓国語など、様々な言語で報道されました。また四ッ谷の聖イグナチオ教会から、いきなり電話が来ました。「お宅様に、法王様に献上されたお米はございますの」。値段を聞かないで注文されました。「値段はいくらで?」と聞くと、「いくらでも結構よ」とおっしゃるので、「一キロ700円でいかがでしょうか」というと、「あら安いのね」とおっしゃるので全てこの値段で売りました。1キロ700円と言えば、富裕層向けの価格です。本当のお金持ちというのは値段を聞かないで物を買います。
このことが日経、日経MJ、フジサンケイグループ、NHKなど多数のメディアで取り上げられました。結局、700~800俵のお米を、電話だけで1ヵ月ぐらいでさばいてしまいました。農協で売ったら一等米が一俵13,000円のところ42,000円で売れたのです。
──それですぐに直売所をオープンできたのですか。
神子原の農民たちは、私が米を売り切れば会社を作ると言っていたのに、すぐには約束を守ってくれませんでした。赤字になったらどうする、失敗したらどうすると言って賛成してくれません。私は簡単ですと言いました。赤字になれば黒字にすればいいのです。売れなくなったら、また売れるようにすればいいのです。ひっくりかえったら起きればいいのです、と。
45回目の会議で、やっと合意を取り付けました。事前に根回ししてあった、ある農家が「パチンコで負けたと思って、一世帯あたり2万円ずつ出そう」と言ってくれたのです。その言葉で、163世帯中131世帯が賛同してくれ、資本金300万円の株式会社神子の里がついに誕生しました。うまくいき出すと、真っ先に反対した人たちが、「これはおれがやったんだ」と言い始めます。私は、これを心の中で「コレオレ詐欺だ」と叫んでいました。
──今後はどのようなことを目指されているのですか。
神子原では、「奇跡のリンゴ」で知られる木村秋則さんの協力を得て、自然栽培を始めました。農薬、肥料、除草剤を使わずに、果樹、穀類、野菜を作り出しました。小さな面積から実証実験を繰り返しましたが、最も腐る野菜はJAS有機認定の野菜でした。野菜は本来、枯れるはずなのに腐るのです。しかし、農薬や肥料も除草剤もやらないと、根は3倍以上、茎は1.5倍に伸びました。木村さんに教えていただいた農法は、今では地元の農協である「JAはくい」が指導できるようになり、米以外にも約40品目の野菜を作って、市内の全小中学校の給食にも出せるようになりました。
明治維新の頃の日本は、一次産品も多く輸出していましたが、今ではほとんど輸出できていません。面積は九州と同じぐらいのオランダが、年間900億ドル以上売っていますが、日本はどんなにがんばっても60億ドルぐらいです。オランダに比べると足元にも及ばないのが現状です。なぜ日本の輸出額が低いのでしょうか。それは、日本は売れないものを作っているからです。ヨーロッパで禁止されているものを日本で作っているのです。
私は自然栽培によって、世界のマーケットを取りにいくことができると確信しています。自然栽培は、日本人が編み出し、継承してきた日本の宝です。「日本人はすごいな、ここまで素材にこだわっているのだ」と言ってもらうことが、これからの日本人がやるべき、おもてなしの基本だと思います。食べた人が健康になる、幸せになれるジャポニック食材を世界に届けたいと思っています。
アシスト創立50周年を記念して、35年間ともにあり続けていただいた日本オラクル株式会社の取締役 執行役 社長 三澤 智光様と対談を行いました。
【対談×トップインタビュー:金沢工業大学】
建学綱領である「高邁な人間形成」「深遠な技術革新」「雄大な産学協同」を経営の柱に、「教育付加価値日本一」という目標を掲げて、社会に貢献する大学運営を実践する金沢工業大学の大澤 敏様にお話を伺いました。
【対談×トップインタビュー:通研電気工業株式会社】
東北電力グループとして機器の開発から設計、製造、工事、保守まで一貫した体制でICTソリューションを提供、電力の安定供給に貢献する通研電気工業株式会社の竹原 秀臣様にお話を伺いました。