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統合期  データベースのアシスト

アシスト・ストーリー 統合期  データベースのアシスト

1980年代、メインフレーム・パッケージ・ソフトウェア市場は新規参入企業が増え、より専門性が高まり、製品分野が細分化した時代でもあった。企業がコンピュータを導入する目的は「生産性向上のために効率よく使うことである」と定義し、アシストは効率化ツールを提供して成長を続けた。

EASYTRIEVEに続くソフトウェアたち

アシスト出版局 1984年発行
アシスト出版局 1984年発行

EASYTRIEVEに次いでアシストが注力したのは、米インフォメーション・ビルダーズ社の簡易言語(※)FOCUS、米オックスフォード社のオンラインプログラム開発ツールUFO、そして米マネジメント・サイエンス・アメリカ(MSA)社の財務会計ソフトウェア・パッケージだった。特にFOCUSは、情報システム部門に依頼せずともエンドユーザが自分でデータを検索/加工してレポートが作成できる、エンドユーザ・コンピューティング・ツールとして大ヒット商品となった。

ソフトウェアの生産性を高める手法としてツールの啓蒙を図るため、1982年にアメリカで出版されたジェームス・マーチンの『プログラマーなしのアプリケーション開発』という本をアシストで翻訳、出版も行った。

(※) こうした簡易言語は、第四世代言語(4GL)と呼ばれていた。



Buy Help Make

アプリケーションの多くが自社開発される時代で、パッケージ・ソフトウェアを導入する企業は少なかった。そんな状況の中でトッテンが用いたのは、ジェームス・マーティンの表現を借りた「Buy, Help, Make」というコンセプトだった。当時のセールス資料では、次のように説明している。

企業がシステムを導入しようとする場合には、まずはじめに自社に最適なソフトウェア・パッケージの導入を検討すべきである(Buy)。次に、自社にとって最適と思われるソフトウェア・パッケージが存在しない場合にはそのシステムのユーザであるエンドユーザが自ら開発に関与できるエンドユーザ・ツールを用いるべきである(Help)。しかし、それでもなお最適なエンドユーザ・ツールが見つからない場合に至って、初めて自社での開発を考えるべきだが、その場合でも開発を効率化するような各種開発支援ツールを用いるべきである(Make)。

これは、アシストが提供する簡易言語(FOCUS)、プログラム開発ツール(UFO)、そして財務会計ソフト(MSA)を販売するためのコンセプトであったが、高度なアプリケーションを自社開発できる高い技術力を持った企業の情報システム部門に受け入れられていき、「こういう機能があればいいと割り切れるなら買う」という企業が増え始めた。しかし、自社開発ならすぐに自社で対応できるのだが、パッケージ・ソフトウェアの場合には、バグなどのトラブル対処という問題が起きる。その不安を解消するためにアシストは特にサポートに力を入れていったのだった。


新たなデータベース製品「IDEAL」

アシストでは、1976年に「TOTAL」の販売権を失って以来、データベース分野製品の取り扱いがなかった。しかし、1985年に再び新たなデータベース分野の製品として、アプライド・データ・リサーチ(ADR)社の「IDEAL」(Datacom/DBの日本市場での製品名)の販売を開始した。

データベースは文字通り「データの基地」である。システム・ソフトウェアの中枢であり、トッテンは常にDatabase Management System(DBMS)の開発動向に細心の注意を払っていた。TOTALのような初期世代の製品では、データベースとオンライン制御は機能が別々であったが、この頃になると、データベースとオンラインの連携が可能なデータベースも販売され始めた。

トッテンが選んだIDEALは、メインフレーム用のリレーショナル・データベース管理システム(RDBMS)で、階層型やネットワーク型のデータベースと比較するとハードウェアへの依存性が低く、データ構造が柔軟であり、データを表として見ることができるため、ユーザにとって使いやすいなど多くの利点があった。当時、アシストの社員が約300名という中、全社員の3分の1にあたる100名体制のIDEAL事業部を新設し、全社をあげてデータベース事業に力を注いでいった。


IDEALからORACLEへシフト

IDEALの販売に注力しながら、他のデータベース製品の検討も継続して行っていた。

カリフォルニア大学バークレー校で研究が始まったINGRES、サイベース社のSYBASE、リレーショナル・ソフトウェア社(現、米オラクル社)のOracle Databaseなど、先端的機能を持つ製品が米国の金融機関などでシェアを伸ばし始めた。

1987年5月、数あるRDBMSからアシストはOracle Databaseを選んだ。移植性の高いSQLを採用していたことが選択の理由だ。同年7月、米オラクル社と総代理店契約を結び、株式会社オラクルを設立、日本におけるOracle Databaseビジネスにいち早く着手した。「ORACLEのアシスト」と言われる所以である。

一方、鳴り物入りで始めたIDEAL事業は、前途多難に陥っていた。開発元のADR社がアメリテック社に買収され、さらに1988年にはアメリテックがコンピュータ・アソシエイツ社に買収されるなど経営が目まぐるしく変化し、併せて開発やサポートが不安定になるなどの問題が生じた。結果的には、当初の期待からすれば地味な成果しか出すことができなかったが、このIDEALプロジェクトで蓄積されたデータベース分野でのノウハウは、後にアシストの大きな強みとなっていった。


一難去ってまた一難、総代理店から一代理店へ

初期のオラクル製品パンフレット
初期のオラクル製品パンフレット

開発元の買収によりIDEAL事業が頓挫する中、アシストが総代理店として販売を開始したOracle Databaseビジネスは順調に伸び始めていた。

そんな折、1990年、DBMSに続き、日本でアプリケーション・ソフトウェア・パッケージを販売することを検討していた米オラクル社は、アシストにその取り扱いを打診してきた。MSAを長年扱った経験から、アプリケーション・ビジネスの難しさを熟知していたアシストがその申し出を断ると、米オラクル社は100%出資の日本法人を設立するとアシストに通告してきた。

1990年、米国はまだ1987年に起こったブラック・マンデー以後の景気後退から抜けきっていなかった。米オラクル社は売上げ1,000億円以上の規模に成長していたが、1990年の第二四半期は赤字を発表した。そして日本法人設立を決めたものの、米国本社から設立資金が送金されてこなかったと聞いたトッテンは、「アシストのオフィスを使ってはどうか」と申し出た。こうして初代日本人社長(佐野力氏)を含む、日本オラクルの創立メンバー5人は、アシスト虎ノ門本社 2階の一角から日本オラクルをスタートさせた。それはすなわち、アシストが総代理店から単なる一代理店に変わったことを意味した。

TOTALが日本法人を設立した時、アシストはその販売権を失った。しかし、日本オラクルは間接販売に重点を置き、アシストと互いに協力して共に勝者になる道を選んでくれた。当時を振り返り、トッテンは次のように語っている。

「アシストはオラクル社の総代理店ではなくなったけれど、オラクル社が子会社を通して日本市場にきちんと投資をしてくれたお蔭で、アシストの商売も伸ばしてくれた」


メインフレームからオープンシステムへ

ハードウェア・メーカーは高性能のUNIXマシンを次々と市場へ投入し、メインフレームとの競合に勝つことも多くなった。

1992年、Oracle DatabaseはUNIX向けのRDBMS市場でトップの座につくと、その後オープン系RDBMSのデファクト・スタンダードとなり、現在に至る。メインフレームが恐竜のようになくなることはなかったが、コンピュータ市場はまさに大きな変化の真っ只中にあった。それは、そのコンピュータ市場でビジネスを行うアシストにとっても大きな変化が起こる予兆であった。



参考文献:



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