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発展期  時代はオープンシステムへ

アシスト・ストーリー 発展期  時代はオープンシステムへ

1987年7月から始まったオラクル・ビジネスは、コンピュータがメインフレームからオープンシステムへと大きく変わりゆく予兆でもあった。

スーパー・マイクロコンピュータ革命の幕開け

1987年10月19日、ニューヨークで株価が大暴落し、世界同時株安が起きた。トッテンは以前から購読していた米国の業界レポートを読み、この景気後退によりメインフレーム・メーカーの業績に陰りが出始めたことに気づいた。それをさらに確信させたのは、ゴールドマン・サックス証券のコンピュータ・アナリスト、ジョン・レヴィンソンが執筆した『ミニコンピュータ業界の展望』と題するレポートであった。

1987年10月23日発行のそのレポートには、次のような大胆な予測が書かれていた。

UNIXによるシステムのオープン化や標準化によってユーザの選択肢が柔軟に広がり、メーカーの独占から逃れられるようになる。過去に力を持ったIBMやDECは大きな痛手を負うだろう。

スーパー・マイクロコンピュータ革命セミナーの案内状
スーパー・マイクロコンピュータ革命セミナーの案内状

米国では、ヒューレット・パッカード、サン・マイクロシステムズ、シークエント・コンピュータなどが高性能のUNIXマシンを市場に投入し、メインフレームとの競合で勝利するケースも出てきた。パソコンが企業に普及し、社内LANの構築も進み始めた。

トッテンは、ガートナー社の創業者であるギデオン・ガートナーやモルガン・スタンレーのトップ・アナリストにもコンタクトをとった。また、前出のジョン・レヴィンソンからも継続してコンピュータ業界の分析レポートを送ってもらい、技術動向だけでなく米国における需要動向も注意深く研究した。そして1988年5月以降、「スーパー・マイクロコンピュータ革命」と題するセミナーを社員向け、また顧客向けにも開き、啓蒙活動を行った。


「オープンシステム革命」をリード

その頃の日本は好況期で企業の情報化投資も拡大していた。国産機メーカーは好業績で、大手コンピュータ・メーカーが経済の変化により打撃を受けることなど、顧客もアシスト社員も想像することはできなかった。

これからは、「特定メーカーに縛り付けられるメインフレーム・システムから、自由度の高いUNIXのようなオープンシステムになっていく」と米国のユーザ事例をあげてトッテンは説明した。「スーパーマイクロ・コンピュータ」という言葉がパソコンと誤解されることが多かったため、1989年以降は「オープンシステム革命」とタイトルを変え、発信を続けた。

しかし、メインフレームによる情報システム投資が盛んだった時代にこのメッセージはなかなか受け入れられなかった。アシストの事業内容はメインフレーム用パッケージ・ソフトウェアの販売が主であったため、トッテンの予測に対して、特に社員の抵抗は大きいものだった。それでも、「お客様に有益な情報を伝えたい」としてオープンシステム革命をアシストがリードするという姿勢をトッテンが崩すことはなかった。


「ソフトウェアの出版社」を目指したアシスト

コンピュータが閉鎖的な中央集権システムから分散システムへ移行したように、世界情勢も、天安門事件、ベルリンの壁の崩落、ソ連の解体など、大きな変化の時期にあった。

「オープンシステム革命」を説くトッテンは、自らがダウンサイジングを率先するために、まずタイピングをマスターした。それまでは紙とペンを使い、清書が必要な時は秘書にタイピングを任せていたのだが、自分でワープロソフトを使うようになったのだ。

当時、日本の大手企業の多くは、メインフレームから専用回線で端末制御装置を経由し、通信機能と入出力機能しかないシンプルな専用端末を使ってデータの照会や入力を行っていた。パソコンの普及により、メインフレームで行っていた作業をパソコンでもできるようになったが、パソコンで使う表計算ソフトやワープロソフトが高額だったことが足かせとなり、企業内でのダウンサイジングはなかなか進まなかった。

アシストが販売したパソコンソフト
アシストが販売したパソコンソフト

この話をアシストの重要顧客数人から聞いていたトッテンが、パソコンソフト製品の調査を行ったところ、主流のパソコンソフトと同等の機能を持つソフトウェアを主流製品よりもずっと廉価に提供できることが判明した。そこで、1989年1月、UNIXとパソコンを担当する「UPプロジェクト」を発足させた。同年9月、表計算ソフト「アシストカルク」、ワープロソフト「アシストワード」、データ管理ソフト「アシストカード」などを9,700円という常識を覆す廉価で販売し、パソコンソフト市場に参入した。この当時、主流の1つであった表計算ソフト「ロータス 1-2-3」は98,000円であり、アシストが設定した価格はその10分の1以下であった。この価格がパソコンソフト市場に与えたインパクトは決して小さくなかった。

パッケージ・ソフトウェアは生産量が拡大しても増産コストは低く、市場規模が大きくなれば利益がでると考え、「ソフトウェアの出版社」と位置づけてアシストは一気に勝負に出たのだった。


時代は変わっても、変わらぬお客様第一主義

表彰式の様子
表彰式の様子

「アシストカルク」「アシストワード」等の販売は好調で、1989年に日経優秀製品サービス賞優秀賞を受賞した。1990年7月にはUPプロジェクトのメンバーは100人まで増え、UNIXとパソコンソフトの部門に分割された。

トッテンは、もっと商品数を増やすようプロジェクト・メンバーに圧力をかけたが思うように商品数は増えなかった。また期待するほどパソコン本体の価格が下がらず、次第にソフトウェアの売れ行きは停滞した。新製品は続かず、人件費だけが増えて行く中で累積赤字は20億円にのぼり、1991年末、UPプロジェクトの解散を決断した。パソコンソフトの販売は中止したものの、製品サポートはパーソナルソフトウェア事業部としてその後、1998年3月末まで継続させた。

アシストは、販売していた製品がソフトウェア・メーカーの都合で販売代理店契約を打ち切られた時も、その製品を使うユーザが困らないように販売した製品のサポートをできる限り継続するように努力してきた。販売価格が安いパソコンソフトでも、その姿勢は貫かれた。


時代の変化に柔軟に対応できるアシスト

結局、パソコン事業への進出はビジネスとして不成功に終わったが、アシストはパソコンソフトの価格破壊に一石を投じる役割を果たした。また、企業におけるパソコンソフトの一括購入契約として現在では一般化した「コーポレート・ライセンス」を導入するなど、パソコン業界に影響を与えた。

この頃から廉価なパソコンソフトを使って、集中型のメインフレームからWindows、UNIX 、Linuxといった汎用OSで動くクライアント・サーバ型へと移行し始める企業が増えてきた。

メインフレーム・コンピューティングからクライアント・サーバへのビジネス移行には、どのIT関連企業も苦労したようだ。クライアント・サーバが主流となったこの時代、アシストのサプライヤーも競合もメインフレーム時代とは異なり、大部分は新しい会社となった。アシストは、メインフレーム・ユーザをサポートしながらも永遠にその時代が続くと信じて安穏とすることはなかった。ダウンサイジングやパソコンソフトという新しい分野への挑戦を惜しまなかったからこそ、アシストはこの後も、クライアント・サーバからインターネット・ベースのWebコンピューティングへの移行にも迷うことなく事業を継続させることができたのだ。


  • タイトル写真は、1990年代にリクルート用に作成された「本音放言」という冊子からの抜粋です。
  • 掲載内容は執筆当時のものです。

参考文献:



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