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創成期  アシストの成り立ち

アシスト・ストーリー1 創成期  アシストの成り立ち

アシストは1971年、システム開発株式会社(東京都渋谷区、社長 永妻 寿)のソフトウェア・プロダクト部として発足、翌1972年、ビル・トッテンが株式会社アシストを設立し、汎用機用パッケージ・ソフトウェア販売の専門商社として活動を開始した。

高度経済成長期における日本のコンピュータ事情

創業当時のビル・トッテン
創業当時のビル・トッテン

創業者ビル・トッテンは、カリフォルニア大学で数学を専攻した。卒業後、アポロ計画関連事業を主業務とするロックウエル社に入社し、シミュレーションやオペレーションズ・リサーチ(OR)の仕事をしているうちにORに興味を持ち、昼間は仕事をしながら、夜は南カリフォルニア大学博士課程で計量経済学を学び始めた。その後、ロックウェルの上司とともに、米国大手ソフトウェア会社であるシステム・デベロップメント社(以下、SDC)に転職。1968年には経済学博士号を取得した。翌1969年にはSDCの依頼で、日本市場の調査のために初来日を果たした。

1969年、日本は高度経済成長の真っ只中。GDPは60兆円を超え米国に次ぐ第2位となり、大企業においてコンピュータの導入も進んだが、主に統計や給与計算など、大型ソロバンとして利用されており、米国のような計画/予測といった高度な情報処理には使われていなかった。

日米の不均衡は、ソフトウェアにおいてさらに大きかった。コンピュータ・ソフトウェア会社の創業には、初期設備投資など多額の資金を必要としないため、1950年代から米国ではコンピュータ・ソフトウェア産業が誕生し始めていた。しかし、この時点では独立した営利企業はまだ少なく、ほとんどは非営利企業かコンピュータ・メーカーのソフトウェア部門だったが、冷戦下の米国では国防需要により開発された技術が民間へ流出し、ハイテク産業の発展が促された。一方、その頃の日本では、通産省によりコンピュータ・メーカーの育成に資源が集中され、ソフトウェア産業の育成には至らなかった。

日米におけるソフトウェア市場の不均衡がもたらすビジネス・チャンス

創設当時入居していたMYビル
創設当時入居していたMYビル

ところが、IBMのアンバンドリング(価格分離)政策が発表され、ソフトウェア流通を促進させる転機となった。ソフトウェアはコンピュータにバンドルされているものであり、実質無償で提供されていたが、1969年6月、IBMが司法省に独禁法裁判で敗訴すると、ソフトウェアとハードウェアを分離して販売する方針を発表したのである。アンバンドリングとは、ソフトウェアをハードウェアから切り離して有償化することであり、パッケージ・ソフトウェア市場が有望なビジネスとなるきっかけになった。

日米のソフトウェア市場が不均衡であればあるほど、日本でのビジネス・チャンスは大きいと考えたトッテンは、米国製パッケージ・ソフトウェアを日本の民間企業向けに代理店方式で販売し、日本市場に参入するようSDCに提案した。1ドル=360円の時代である。人件費が高いアメリカ人が人件費が低い日本企業のソフトウェアを受託開発するのでは採算が合わず、ましてや日本文化を理解する技術者がSDCにはいなかったたため、受託開発ではビジネスにはならないとトッテンは判断したのだ。しかし、当時パッケージ・ソフトウェアなど扱っておらず、多数のプログラマーを抱えたSDCは軍事向けの受託開発による日本でのビジネス展開を考えており、トッテンの提案を却下した。

トッテンはこの会社の決断に納得できず、1971年にSDCを退職。自らアプリケーション・ソフトウェア社のソフトウェア「ASI-ST」の販売権を取得し、同年、再度来日し、システム開発株式会社 社長 永妻寿氏の協力で、同社内にビジネス拠点を間借りし、秘書を雇用、同社からの出向社員4名の総勢6名でソフトウェア・プロダクト部を発足、ASI-STを主力製品として活動を開始した。翌1972年3月22日には、取扱製品第1号である「ASI-ST」にちなみ、資本金100万円で株式会社アシストを設立した。

パッケージ・ソフトウェアの啓蒙活動 ~ レディメイドへの移行

「ASI-ST」はデータ・マネジメント・システムと呼ばれていた分野のツールで、プログラム開発の生産性向上のために使われたパッケージ・ソフトウェアであった。当時、完全なサード・パーティのパッケージ・ソフトウェア製品は日本にはなく、特にユーティリティ的なツールの開発や利用は米国よりも5年ほど遅れていた。トッテンはそこにビジネスチャンスを見出したのだ。しかし、日本企業では、メインフレーム用のアプリケーション・ソフトウェアはプログラマーが社内でスクラッチ開発するのが普通であり、ASI-STの販売は容易ではなかった。

そこでトッテンは、パッケージ・ソフトウェアの啓蒙活動を重視し、業界誌にソフトウェアに関する論文を掲載し、その有効性を説いた。

『いかなる製品も、その社会的重要性の高まりとともに3つの段階を経て成長する。すなわちセルフメイド、カスタムメイド、レディメイドであり、コンピュータ・ソフトウェアでも現れはじめている。コンピュータメーカーはOSやコンパイラなどを提供し、ユーザーは在庫管理や給与計算などのアプリケーションをセルフメイドする。プログラミング需要が高まると、ソフトウェア会社が出現し、カスタムメイドが行われる。そして、すでに欧米にあるようなパッケージソフトを活用する、レディメイドへと移って行くのである』

(出典:月刊コンピュートピア1972年4月号 『起業家ビル・トッテンITビジネス奮闘記』要約・抜粋)

ASI-STの第一号ユーザは、パッケージ・ソフトウェアに対する抵抗感のなかった外資系企業のシェル石油であった。ASI-ST導入後、シェル石油では情報システム部門内にデータマネジメント課が新設され、ASI-STを全社的に普及させる体制を作り、最盛期にはASI-STで書かれたプログラムが1万本近くも稼働していた。

元会長の水野は、いわば「武士の奥さん」

当時のトッテンと水野
当時のトッテンと水野

パッケージ・ソフトウェア・ビジネスの明確なビジョンを持っていたトッテンでさえも、日本のユーザ企業が持つパッケージ・ソフトウェアへの抵抗感を払拭することは容易ではなかった。また当時の日本には、小さなソフトウェア会社を支援する金融機関が存在しなかったため、設立当初のアシストは資金繰りに悩まされた。銀行からお金を借りようにも、担保がないからと断られたのである。それを支えたのは、トッテンの結婚相手の父親で、1973年にアシストの代表取締役会長に就任した水野武だった。

トッテンは水野の貢献を“武士の奥さん”と形容する。

「いつも自分の家を担保にして必要な時にお金を借りてくれた。
武士の誠実な奥さんは家の中で倹約し、いざ夫が戦に出かけるときは困らないように支度を整える。それがいつなのかわからないけれど備えている」

水野はまた、トッテンに松下幸之助、出光佐三、本田宗一郎といった起業家や経営者について書かれた本を読むことを薦めた。トッテンは、株主の利益を最優先する米国企業とは異なり、顧客と従業員を大切にする日本企業の経営者に強い共感を持つようになったのである。


  • タイトルに使われている写真は、元会長の水野が勤務していた平和相互銀行(後に住友銀行に吸収)の箱根の保養所に初めての社員旅行として出かけた時のものです。

参考文献:



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