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成長期 前編  パッケージ・ソフトウェア市場の興隆

アシスト・ストーリー2 「成長期 前編  パッケージ・ソフトウェア市場の興隆」

1972年設立からの5年間はアシストにとって苦難の時期であった。売上げは横ばいのまま、1975年、取扱製品は6製品になった。

販売低迷を打開したソフトウェアのレンタル販売

トッテンを含む社員6人で、社員数と同じ本数のソフトウェアの営業、インストール、教育を行い、さらにはセミナーも開催した。その傍らで資料作りを行うなど多忙を極めるも、なかなか業績にはつながらない日々が続いた。

しかし転機は訪れる。パッケージ・ソフトウェア販売で収益を上げるビジネス・モデルが確立されていないこの時代にトッテンが採用したのは、「ソフトウェアのレンタル販売」であった。1977年にはIBMに続き国産機メーカーもソフトウェアをアンバンドリング化し始め、汎用ソフトウェアに対する国内企業の認識にも変化が起こり始めた。それでも、ソフトウェアはオーダーメイドでハードウェアに「おまけ」で付随するものという考えが一般的で、ソフトウェア購入単体で予算をとる習慣のなかった企業のコンピュータ・ユーザにとって、パッケージ・ソフトウェアの購入は高額な出費であった。しかし、パッケージ・ソフトウェアの月額レンタル料ならば情報システム部長の決裁でも購入は可能となる。アシストにとっても、一度に大きな売上げがたたないので税金は安く、1ヵ月の収支が見渡せるので資金繰りもしやすくなった。また、トッテンはソフトウェアの保守契約も重視し、安定的に継続した利益を上げる仕組みを作っていった。


成長トリガーとなった簡易言語「EASYTRIEVE」

EASYTRIEVEのパンフレット
EASYTRIEVEのパンフレット

アシスト成長のトリガーとなった製品がある。1976年から取り扱いを始めた「EASYTRIEVE」という、簡単に帳票を作成するための簡易言語だ。

70年代後半に第2次石油ショックが起こり、新卒採用を控える企業が増えたが、システム部門におけるプログラム開発は増加の一途を辿っていた。その穴を埋めるツールがEASYTRIEVEだった。しかし、プログラミングなどの技術力を持つシステム部員の中には、パッケージ・ソフトウェアに否定的な考えを持つベテランも少なくなかった。そうしたベテラン社員の抵抗感を取り除くために、トッテンは簡易言語という言葉を使わず、「スーパー・ユーティリティ」としてEASYTRIEVE を紹介した。主業務の開発はCOBOLなどのプログラミング言語で行い、非定型的な処理にはEASYTRIEVEを使う。自分の仕事がパッケージ・ソフトウェアに置き換えられるのではなく、空いた時間は別の仕事に取り組むことで生産性を上げることができる。そんな営業文句を使ってトッテンは、EASYTRIEVEをバックログに悩むシステム部のベテラン社員に売り込んだのだった。


「富山の薬売り」戦略で販路拡大

当時のセミナーの様子
当時のセミナーの様子

システム部門だけを対象にすると市場が限定されてしまう。利用者を増やすためにトッテンが次に行ったのは、エンド・ユーザにもパッケージ・ソフトウェアを使ってもらうことだった。

そのためにとった戦略が「富山の薬売り」だ。まずトッテンが営業訪問をする。次に技術者がテスト用にパッケージ・ソフトウェアをインストールし、その説明をする。

「置いて帰るので気にいって使うのでしたら購入してください、使わないのであればお金はいりません」

1970年代半ばは、企業でのメインフレーム利用も増え、コンピュータ化の黎明期とも言える時期でもあった。ソフトウェア開発の効率化が高まったタイミングで、アシストが扱っていた製品は複数あったが、EASYTRIEVEの販売とサポートに集中したことが奏功した。知名度のない小さな会社であったアシストだが、こうして大企業を1社ずつ訪問し、実際に使ってもらい効能を実感した人に買ってもらうという販売戦略でパッケージ・ソフトウェアを浸透させるのと同時に、アシストの経営基盤も固めていった。


驚異の急成長と一社専属にならない販売代理店ビジネス

売上高と社員数の推移

1978年頃から業績は一気に上向いた。設立初年度の売上げは3,000万円弱だったが、1977年には1億5,000万円と5倍になる。ここからアシストの急成長が始まった。1980年は3億7,200万円、1981年は6億3,200万円、1978年から1985年までの売上高は平均年率65%という驚異的な伸びを示したのである。

当時、アシストの取扱製品はすべて米国製パッケージ・ソフトウェアであった。製品選択はトッテン自身が目利きし、日本市場における可能性を吟味しながら、米国で評判の高い先進性のある優れた製品を選んだ。この頃からすでにアシストの特色として、一社専属の販売代理店にはならない、どのメーカーの汎用ソフトウェアであっても日本企業にマッチした優れたソフトウェアであれば、日本での販売権を得ることをビジネスの基本としていた。特定企業の専属になれば、他社に良い製品があったとしても、その企業の製品をお客様にお薦めすることになってしまうからだ。


代理店販売と日本法人化

アシストの業績が上がり、日本でパッケージ・ソフトウェア市場が形成され始めるということは、開発元のソフトウェア会社にとって日本市場の魅力が増すということになった。アシストのような販売代理店は、製品ロイヤリティを開発元に支払っているが、日本でのユーザが増えれば、日本に100%出資の子会社を設立し、代理店を通さず直接販売したいと考えるようになるのも当然であった。

1976年、アシストはデータベース管理システムの「TOTAL」の開発元シンコム社より日本法人を作るからと販売代理店契約解消を突然申し渡され、翌年からシンコム・システムズ・ジャパンが日本におけるTOTALの販売を開始した。しかし、トッテンは、アシストが販売した顧客30社に対してはアシストが継続してサポートを提供することを主張した。販売代理店契約が終了すれば新規営業はやめるが、アシストが販売したお客様に関してはお客様が希望すればアシストが責任をもってサポートを継続するという方針を貫いたのだ。

アシストが販売代理店というポジションを途中解約されたのはこのTOTALが最初であったが、最後ではない。これ以降も、一定のユーザ基盤を形成した後に販売代理店契約を解約されるという経験をアシストはしている。その度にアシストが最も懸念したことは、販売代理店でなくなってしまったからといってアシストが販売した製品のサポートができなくなってはならない、ということだった。


  • タイトル写真は、初めての創立記念式典。ねずみ年にちなんで子年生まれの社員がミッキーマウス帽をかぶって祝いました。社員数は100名を超えました。

参考文献:



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