成長期 後編 アシストの基盤づくり
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EASYTRIEVEの販売が伸び始めた1978年、アシスト大阪営業所を新設した。それでも全社員数はまだ10人ほど。この時期に現在まで受け継がれているアシストの営業の基本が確立された。
アシスト営業の基本「週15件のアポイント」
アシストの営業の基本とは、「できるだけ多くの顧客と面会する」ことである。これはトッテンが愛読していたフランク・ベトガーの著書から学んだものだ。
ベトガーはかつて米メジャーリーグの野球選手であったが怪我により引退し、生命保険の営業マンに転身する。最初、まったく契約がとれなかったべトガーは、デール・カーネギーの教育コースを受け、営業には「パッション」(情熱)が必要だと知る。それからは、できるだけ多くの見込み客に電話をかけて面会し、一流の営業マンとして全米に知られるようになった人物だ。
若い頃のビル・トッテン |
トッテンはベトガーのこのやり方を忠実に実践した。数多くの企業を訪問し、顧客が一番大切に思っていることを支援するような提案を行う。そのために営業マンは「口」を使うのではなく、「耳」を使ってお客様の話をしっかり聞く。トッテンは一日に少なくとも5人のお客様を訪問することを自らに課した。商談に1時間、移動時間は30分、秘書が電話でアポイントをとってスケジュールを決め、とれない時は飛び込み営業も行った。英語は使わないと決め、たどたどしい日本語で大企業の情報システム部長に面会を求め、情熱を込めてパッケージ・ソフトウェアの利点を説いて回った。これを継承して現在もアシストの営業マンは週に15件の顧客訪問を必達目標に掲げている。この数は、実際にトッテンが営業マンとしてお客様を訪問し、通常の営業マンであれば1日3件は回れるだろうということで決めた数字である。
トッテンを筆頭とする営業マン全員で数多くの企業を訪問し、「テストだけでもして欲しい」とお願いした後、技術者が訪問してEASYTRIEVEをインストールし、講習会を開き使い方を説明した。社員が少なく、明確な分業体制も確立していなかったため、トッテン自身が講習会の講師を務めたこともあった。
1980年代に入ると日本国内のソフトウェア流通は急速に拡大した。1981年12月にはEASYTRIEVEが国内で最も使用されているソフトウェアとなった(日経産業新聞1981年12月18日付記事)。
ニュースレター『アシスト・メモ』の誕生
アシスト・メモ |
営業活動に役立ち、かつ顧客にとって有益になるような仕組みを作ろうと、トッテンは1980年から『アシスト・メモ』というニュースレターの配布を始めた。
きっかけは営業で訪問したあるお客様の一言だった。
「顧客を訪問するなら、何か役に立つお土産を持っていったほうがいい。アシストの営業マンと会ったら得られる情報があるなら、誰でも会ってくれる」
当時、コンピュータのマーケット・リーダーはIBMであり、顧客が欲しがる情報といえばデファクト・スタンダードであったIBMに関する情報であった。トッテンは、コンピュータ専門の調査会社、米国ガートナーグループと契約し、ガートナーが提供するIBM情報を翻訳した手書きのニュースレターを『アシスト・メモ』として配布した。また、ガートナーのアナリストを日本に招聘してセミナーを開き、IBMを中心とした米国のコンピュータ情報をユーザに提供したのだった。その後、ガートナーグループは日本法人を設立した。
お客様の声、アシスト誌 |
日本のコンピュータ・メーカーの躍進や、90年代に入ってからのインターネットの普及などにより、日米の情報格差は大幅に縮まった。日本国内の卓越したユーザによるコンピュータ活用事例も増えてきたため、米国情報を取り扱っていた『アシスト・メモ』は、国内の先進事例などを取り上げる『アシスト誌』や『お客様の声』と姿を変え、今でも営業マンがお客様へお届けしている。
会費制の勉強会『アシスト・サロン』
当時のアシストサロンの様子 |
1981年には『アシスト・サロン』と呼ばれる会員制、会費制の勉強会も始まった。
月に一度、ユーザ企業の情報システム部門管理者が午後6時頃からアシストの会議室に集まり、立食形式でビールなどを飲みながら歓談する。その後、あらかじめ指名された会員が決められたテーマに沿って30分程度のスピーチを行い、そのテーマについて9時頃まで全員で意見を交わすという集いだった。
ユーザのほとんどが上場企業のシステム部長などで、参加者同士が製品の評価や導入事例の情報交換を熱心に行うなど、 アシストが何かを提供する場というよりも、会員である顧客同士が情報交換をする、いわば異業種の情報交流会のような場であった。1980年代初期、日本のコンピュータ・ユーザが得られる情報は限られていた。アシスト・サロンのような異業種交流会は珍しく、ユーザ同士のコミュニケーションといえば、特定の商品に特化したユーザ会しかない時代だった。
アシスト本社のある東京から始まった『アシスト・サロン』は、その後、大阪、名古屋、福岡、札幌に広がった。会員20人~30人規模のサロンが全国で30ほど発足し、その活動は1990年代まで続いたが、その後メンバーの異動や退職で自然消滅し、『アシスト・サロン』の活動は1996年に始まったソリューション研究会に引き継がれていった。
アシスト海外研修ツアー
海外研修ツアーの1コマ |
「米国企業を視察したい」というお客様の要望を受け、1982年には『アシスト海外研修ツアー』も開始した。
ニューヨーク、ボストンからサンフランシスコまで大陸を横断しながら、2週間で12社ほどの米国企業を訪問した。情報システム活用における日米の格差や違い、コンピュータ運用現場の人々が抱く素朴な疑問を、実際に現地に赴きその目で確かめるものであった。訪問先にはトッテン自身がアポイントをとり、視察のみならず参加者が観光を含めて米国を十分に楽しめるよう、数ヵ月間かけて企画された。海外研修ツアーは全部で18回、1996年まで行われた。
社員数100名超! 虎ノ門に本社ビル
1972年、若干6名でスタートしたアシストだが、1983年には社員も100名を超えた。
1985年3月、それまで新橋の数箇所に分散していたオフィスを集約し、ホテル・オークラに近い地上6階、地下1階の虎ノ門3丁目へと本社を移転した。屋上には「ASHISUTO」という大きな看板を掲げ、バックライト照明も当てた。これには理由があった。海外からソフトウェア会社の役員が来日するとトッテンは、アシストのオフィスが見える方角の部屋をホテル・オークラで予約した。朝はラウンジで打ち合わせを行いながら朝食をとり、移動は地下鉄を利用し、夜は居酒屋へ。高い物価と混雑する社会、アメリカとは全く違う印象を与え、日本に子会社を設立して直接販売するのではなく、日本での販売はアシストに任せて欲しいという意思表示だ。
虎ノ門本社の2階から6階はオフィスで、1階にはテーブルと椅子を置いて接客スペースとして活用した。また、この接客スペースは、顧客や関係者が無料で絵画などを展示できるアシスト・ギャラリーとしても活用された。鮮やかな絵画たちは本格的な画廊といっても謙遜ないくらいであった。
統合期へとつながる「データベース市場」への再参入
1985年には本社移転の他にも重要な出来事があった。その一つはデータベース市場への再参入であった。
アシストは1974年にデータベース管理システム「TOTAL」の取り扱いを開始し、約30社に販売したが、開発元が日本子会社を設立するとして代理店契約を1976年に解消されて以来、しばらくの間、データベース製品を持たない時期があった。トッテンはこれを重大な問題ととらえていた。データベース製品はシステムの中核となる存在であり、多くの関連ツールが開発されている。このデータベース製品を握ることができれば、システム全体を握ることができると考え、次のステップに進むためにはデータベース市場への再参入が不可欠だった。
- ※ タイトル写真は、1987年頃の経営会議の様子です。
- ※掲載内容は執筆当時のものです。
参考文献:
- 1.「起業家ビル・トッテン ITビジネス奮闘記」 砂田薫著(コンピュータ・エージ社)
- 2.「ソフトウェア・ビジネスの冒険者たち アシストの野望と挑戦!」 松尾俊和著(日本ソフトバンク)